Special - Interview

音楽活動休止の真意とは? “島唄”を生んだTHE BOOM・宮沢和史の、沖縄と共にある人生

宮沢 和史

1989年にTHE BOOMのフロントマンとしてデビュー以来、精力的に音楽活動を続けてきた宮沢和史。しかし、一昨年の2014年にTHE BOOMは惜しまれつつ解散。今年の頭には、自身の音楽活動に関しても休業することを発表した。
“島唄”の大ヒットで知られる通り、宮沢は沖縄との関連が深いアーティスト。沖縄にちなんだ楽曲を多数生み出しただけでなく、沖縄を愛し、様々な活動を通して沖縄と関わってきた。12月に発表されたソロでの集大成ベスト・アルバム『MUSICK』にも、BEGINとともに再演した“世界でいちばん美しい島”を始め、沖縄にちなんだ楽曲が多数選ばれている。彼にとって、沖縄とはどんな存在なのか、音楽活動休業後は何をするのか、じっくりと語ってもらった。

「ひめゆり部隊だったおばあちゃんに聴かせようと思って作ったのが、“島唄”なんです」

—“島唄”のイメージが強い宮沢さんですが、ご出身は山梨県ですよね。そもそも沖縄と出会うきっかけはなんだったんでしょうか。

宮沢:THE BOOMの3枚目のアルバム『JAPANESKA』(1990年)の時に、日本を掘り起こそうと思って、日本の原風景のある場所をいろいろと探したんです。でも、なかなか見つからなくて、ようやくたどり着いたのが沖縄だったんです。僕の先輩にあたる音楽家たち、たとえば細野晴臣さんや坂本龍一さんなどが沖縄をテーマに作ってきた音楽が身体に刷り込まれていたし、友人が買ってきてくれたマルフクレコードの沖縄民謡のカセットを聴いて衝撃を受けていたこともあって、ずっと沖縄には行きたかったんですよ。

宮沢 和史

—実際に来てみて、気付いたことはありますか。

宮沢:音楽のことはさておき、なにより衝撃的だったのは、沖縄戦の痕跡でした。その時はすでに“100万つぶの涙”という初めて琉球音階を使った曲のメロディはできていたんですが、歌詞で何を伝えるか決まっていませんでした。でも、移動中のバスの中で自然に歌詞が出てきたんですよね。戦争で先立たれた妻の死体を畑に埋めて、「今も、そして僕の命が土に還ってもずっと一緒だよ」という歌なんですが、なぜそんな歌詞が出てきたのかもわからない。でもとにかく、沖縄を訪れたことで生まれた曲なんです。それで、「この島には何かあるな」と思って通うことになるんです。

ー通うなかで、沖縄の印象は変わっていきましたか?

宮沢:通うたびに戦跡に目が止まりました。「まだ戦争は終わってない。自分はこんなに大事なことを知らなかった」ということに落ち込んでしまって。当時、ひめゆり平和祈念資料館では、実際にひめゆり部隊だったおばあちゃんが語り部として話をしてくれていました。実は、その戦争の話を聞いて僕が思ったことをそのおばあちゃんに曲にして聴かせようと思って作ったのが、“島唄”なんです。

—“島唄”がヒットして変わったことはありましたか。

宮沢:ウチナーンチュ(沖縄生まれの人)ではない山梨出身の僕が、戦争体験もしていないのに、沖縄の戦争についての歌を、三線を持って歌うというチグハグさ。僕がそんなことをしていいのかと、世間に発表してもいいのか、ずいぶん悩んだんですが、当時出会った喜納昌吉さんが「僕らもヤマト(日本本土)に行くから、きみもこっちに来い。魂をとらえていたら、それはもう真似ではないから」と言ってくれたんです。

—素敵な方ですね。

宮沢:嬉しかったです。ただ、正直あそこまでヒットするとは思ってもみませんでした。多くの人が、「沖縄の誇りだよ」とか「三線を世に広めてくれてありがとう」とか言ってくれたんですが、「沖縄人でないくせに琉球音階を使うな」というようなバッシングも多かった。相当落ち込んだりもしましたよ。

—バッシングされても、沖縄と関わり続けたのはどうしてですか。

宮沢:やっぱり沖縄が好きだからです。ここには宝物がたくさんあるんですよ。住んでいる人はあたりまえすぎて気付いていないかもしれないですが、僕は気が付いちゃったから大事にするよ、って。自然も芸能も、とにかく素晴らしい。とくに僕は音楽家なので、沖縄民謡が本当に好きでこの先もずっと残ってほしいから、何かできることがないかなと考え続けていて。宝物はたくさんあるけれど、時代とともに失っていくものも多いですから。

たとえ沖縄の人にバッシングされても、「やりたいことをやらないと」と思った

—現在、宮沢さんは沖縄民謡を記録しているという話を聞いたんですが、具体的にはどういうことをされているんですか。

宮沢:工工四(くんくんしー)ってご存知ですか?

—沖縄音楽の楽譜ですよね。

宮沢:そうです。沖縄音楽にとって、工工四ができて、楽曲を記録できるようになったのはとても良いことです。でも、民謡って同じ曲でも歌う人によってまったく違うんですよ。歌いまわしやニュアンスだけでなく、歌詞も替えたりする。そういうのはきちんと音源の形で記録しておかなきゃと思って、3年前から民謡の録音を始めたんです。

—すでに3年もやられているんですね。

宮沢:実はもっと前から考えてはいたんです。1999年に嘉手苅林昌さんが亡くなった時、大きな喪失感があったんですよ。ただ、嘉手苅さんは録音がたくさん残っている。だから、他の方も記録しておかなきゃなと思っていたんです。でも、なかなか腰が上がらなくて。

—音楽活動がお忙しかったから?

宮沢:それもありますが、民謡界の一部の方々から、かつて“島唄”や僕に対するお叱りがあったからかもしれません。でも、震災があって、何万人という人の将来や希望が一瞬に消えてしまったのを目の当たりにしたら、「やるべきことは今始めないと」と思って。それで、1人1曲、後世に残したい歌を録音するというプロジェクトで、去年無事に250人分を録り終えたんです。

宮沢 和史

—250人分とは、すごい数ですね。

宮沢:みなさん快く引き受けてくださいました。20数年間、“島唄”をはじめ沖縄のことを歌い続けてきた僕を、受け入れてくださったんだと思います。

—できあがった音源は販売するんですか?

宮沢:250曲分をCDで販売すると14枚組になるし、その枚数でパッケージ販売すると、定価がすごく高くなってしまうんです。そうすると、なかなか広まらない。だから、パッケージ販売はやめました。今年の10月に「世界のウチナーンチュ大会(琉球移民を先祖に持つ世界の琉系外国人が、数年に1度沖縄県に集う祭り)」があります。そこで、この音源を各国や各地の沖縄県人会に持って帰ってもらって、世界中で暮らしている沖縄の人たちに聴いてもらって、各地で民謡が生き続けていってもらいたいと思っています。あとは、沖縄県の各図書館と高校に寄贈する予定でいます。工工四では伝わらない音の教科書になると思うので。今は完成に向けて、夜な夜な歌詞を自分でパソコンに打ち込んでいます(笑)。

—宮沢さんにとって、このプロジェクトをやることに使命感のようなものがあったんでしょうか?

宮沢:うーん、なんでしょうね。単に、250人の名演を自分が聴けるのが幸せというのがまずあって(笑)。でも、この3年の間に、沖縄民謡の歌手である登川誠仁さんと照屋寛徳さんが亡くなってしまったんです。たった3年ですよ。だから、今記録しておかないと、本当に消えてしまうかもしれないっていう焦りもありました。

飲みの席で生まれた、三線を沖縄でつくるプロジェクト

宮沢:それから他にも、三線の材料になる「くるち(黒木)」を栽培するプロジェクトもやっています。

—100年後に県産のくるちで作った三線を奏でようというプロジェクト『くるちの杜100年プロジェクト in 読谷』ですね。

宮沢:“島唄”がヒットして、三線がとても売れたんですよ。その数年後に、戦後50年に平和の世を祈念して奥武山公園で3000人の三線を集めたイベントを行ったんです。一般公募で歌詞を募集して、僕が曲を付けて演奏するという企画です。これが大盛況で、沖縄じゅうの三線が店から売れて無くなったという話を聞いて、とても嬉しかったんです。民謡離れといわれていた時期に、大人も子どもも三線を買ってくれた。

—まさに沖縄文化を広め、継承した。

宮沢:でも、何年か前に三線職人の方と飲んでいた時に「宮沢さんのおかげで三線が全国区になってよかった。でもそのせいで沖縄から三線の材料が無くなって、今は全部輸入だよ」って言われたんですよね。その方は酒の席の笑い話のつもりだったんですが、思いもよらないことで僕は笑えなかった。広めることは大事だけど、広めれば広めるほど薄まってしまう。その怖さに気が付いて、コアなものは絶対に守らないといけないと思ったんですよ。

宮沢 和史

—それで、くるちを育てて、県産の三線をつくるこのプロジェクトが生まれたんですね。

宮沢:たとえば、伝統的なエイサーも創作エイサーも、どっちが良いとか悪いじゃなくて、どっちもあっていいと思う。ただ、コアな部分は絶対に残さないといけない。だから、音楽活動で沖縄音楽を広く伝える一方でくるちを植えていこうと考えたんです。最初はひとりでやろうと思ったんですけど、くるちって育つのに100年や200年かかる。

—そんなにかかるんですか!

宮沢:そうなんです。だから、僕がひとりでやっても、死んだ後に誰もケアできない。それで、当時、沖縄県庁にいた平田大一さん(現・沖縄県文化振興会理事長)に話をしたら、読谷でくるちを植えた実績があると。それで、歴代の村長にこのプロジェクトの会長を務めてもらい、僕が名誉会長になって平田さんと一緒に始めました。毎年9月6日に植樹祭をやっているんですが、今では3000本くらい育っていて、三線事業協同組合、森林組合、ボランティア、ミュージシャン、一般の人と、いろんな人が集まるんです。

—音楽活動だけに留まらず、本当に幅広い活動をされているんですね。

宮沢:単純に楽しいんですよね。沖縄のいろんな人と関わっていけるし、こういうことも僕は音楽活動だと思っている。音楽家は、歌うだけではないんですよ。

「沖縄のために何かしたいという想いは、年々強まってきているんです」

—昨年発表された宮沢さんの集大成といえるベスト・アルバム『MUSICK』には、沖縄をモチーフにした楽曲が多いですよね。

宮沢:そうですね。音楽を始めた頃は、自分の音楽は自分の内面を表現してそれで完結させればいいと思っていたんです。でも、沖縄の扉を叩いたら、外の世界の面白さに目覚めてしまった。それで気が付けば、キューバ音楽を取り入れたり、ブラジルでアルバムを作ってコンサートをしたりと、いろんな世界へ旅立つことができたんです。それも全部、沖縄がきっかけですからね。沖縄に来なかったら、まだ自分の世界に閉じこもっていたかもしれないです。

—あらためて、宮沢さんにとっての沖縄とはどのような存在なんですか。

宮沢:大人になってからできた故郷ですね。生まれ育った山梨県は大好きだし、その血はなくならない。でも、沖縄は帰るべき港というかんじです。

—まさに宮沢さんの代表曲のひとつである“世界でいちばん美しい島”のイメージですね。

宮沢:いろんな歌を作ってきたけれど、この曲は、これまでの想いをひとつに集約した曲でもありますね。故郷は誰にとっても、“世界でいちばん美しい島”であることに間違いない。世界には紛争などの事情があって帰れない人もいるけれど、概念としての故郷はいつでも美しい場所であるはず。そのことを強く思っていれば、戦争だってなくなると思う。だから、子どもたちがそう思ってくれれば、世の中も変わって行くはず。植樹のプロジェクトで学校を回ることがあるんですが、生徒たちがこの曲を僕に歌ってくれるんですよ。それを聴いていたら本当に涙が出る。そんなこともあってこのアルバムには、上原直彦さんにウチナーグチの歌詞を書いてもらって、BEGINと一緒に演奏したヴァージョンを入れました。

—先日、休業宣言をされましたが、そのことについてお聞きしてもいいですか。

宮沢:10年位前から首のヘルニアに苦しんでいたんです。無理をしながらなんとか活動していたんですが、その間にもいろいろと思うことがあって。THE BOOMの4人でできることはもうやり尽くした気持ちもあったし、メンバー・チェンジもなく、全員がいい状態の時に辞めることができたのは幸せです。それで、ひとりになって考えたのは、これから新しいことに挑戦していく上で、「歌手」という肩書きを逃げ場にしていて、帰るべき場所を作ってしまうのは違うなと思ったんですよね。だから、その肩書を外して、退路を絶って、自分を追い込んでみないといけないなと思って決意したんです。

—今後も沖縄に深く関わっていかれるんですね。

宮沢:まだ詳しくお話しできる段階ではないので、まとまった時点できっちり発表したいと思っています。でも、主に沖縄に関することですね。沖縄のために何かしたいという想いは、年々強まってきているんです。

宮沢和史

Event

The Drumming〜それでも僕たちはこの地球(ほし)を叩き続ける
開催日
2016年02月05日〜2016年02月14日
開催時間
開演:平日(2/5, 8, 9, 10, 12)19:00
土日祝(2/6, 7, 11, 13, 14)14:00、17:00
チケット(入場料)
2,500円
主催
(公財)沖縄県文化振興会
イベント会場
イオンモール沖縄ライカム 3階イオンホール
イベント会場住所
沖縄県中頭郡北中城村アワセ土地区画整理事業区域内4街区
イベントURL
http://magnetcontents.net/the-drumming
問い合わせ
098-987-0926(平日9:00〜17:00)
E-mail
info@okicul-pr.jp
チケット購入方法1
沖縄文化振興船チケット販売URL
チケット購入方法2
イオンモール沖縄ライカム 2階インフォメーション
宮沢 和史
宮沢 和史

Profile

宮沢 和史

1966年山梨県甲府市生まれ。THE BOOMのボーカリストとして1989年にデビューして以降。類い希なる探究心と行動力で、生命力溢れる音楽の源泉を求め国内外を巡り、これまでにTHE BOOMとしてアルバム14枚、宮沢和史としてアルバム4枚、多国籍バンドGANGA ZUNBAとしてアルバムを2枚発表している。 代表曲のひとつである「島唄」は、アルゼンチンでの大ヒットをはじめ、各国のミュージシャンにカバーされており、国境を越えて今なお世界に広がり続けている。 デビューのきっかけのなったTHE BOOMは、25周年を迎えた2014年3月31日、長いバンド活動の歴史に幕を閉じることを発表。全国13箇所をまわった全国ツアー、そして大阪・フェスティバルホール、東京・日本武道館をもって、その活動を終えた。今後の新たなる旅の始まりに注目が集まる。
宮沢 和史オフィシャルウェブ

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